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第四章 「含蓄と認識、メタファーについて −まとめ−」
法はとても密接に関係しているものである。しかも、どれも日常会話や文学作品など、す でに現在の日常生活の中にとても馴染んでおり、こういった特別な機会でもない限り意 識して使うことなど無いほどである。瀬戸賢一氏の『メタファー思考』によると、「いくつか の研究で、解釈が得られるまでの時間を計測することによって、文字通りの文とメタファ ーを含む文との理解の速さに違いがあるのかどうかを確かめようとした。その結果分か ったことは、有意な差はないということである。つまり、メタファーは、メタファーとして直 接理解されているということを意味する。」としている。このことからも、どれだけ両者とそ れを利用しているメタファーという表現方法が、日常で何げなく使われ、また馴染んでい るかが伺えると思う。また、「認識」について取り挙げてみると、例えば、人は一般的に 「上」や「高」をプラスの意味、「下」や「低」はマイナスのイメージというように、人が認識 している文字へのイメージというのは、すでにある程度決まっているようである。「上手/ 下手」から始まり、「高学歴/低賃金」などがそうであり、その他にも「明」といえば、「明 晰」とか「明白」などと使われるが、「時」といえば「暗殺」や「暗黒」など、あまりいいイメ ージには使われないのである。このために、薮さんは医者になりにくくなったり、病院に 数字の4と9を使った部屋がなかったりするのである。しかし、今まで述べてきたメタファ ーを始めとする含みの表現というのは、人が持つこういった何げない認識を利用した表 現方法であり、逆にいえば、こういった認識なしには成り立つことが出来ないものなので ある。 もう少しメタファーを通して含みと認識について触れてみると、レヴィ=ストロースの『今 日のトーテミズム』には、「メタファーはことばをあとから飾り立てるものではなく、その根 源的な叙法のひとつである。」と述べられている。つまりメタファーとは、それ自体を表に 出さずに表現し、それ自体を強調する、というだけでなく、その言葉の裏にあるもっと深 い郡分までを、受け取る側の認識を利用しながら引き出し、最終的には言葉の意味まで も決定してしまうのである。またG.レイコフの『レトリックと人生』では、「メタファーによっ て成り立っている概念というのは、あくまであるものを部分的にあらわすものであって、 そのものの全体をあらわすわけではないことを知ることは大切なことである。もし全体を あらわすものであるとしたならば、ある概念が他の概念を通して理解されるだけではな く、事実上、他の概念と同一だということになってしまうのである。」とあり、メタファーと は、他の概念を使ってある概念を部分的に表現するものであり、それは完全に重なり合 わない部分があり、また重なり合いようがないものだとしている。つまり、それ自体は非 常にリアルだが、本物では決してなく、リアルに見せる技術だというのである。そしてそ の後に、「暗喩はもともと説明ではなく、暗示による伝達だ」と付け足している。つまりそ れは、全体を見せるよりも、ある部分を隠し、残りの部分だけで全体像を想像させる技 術なのである。そういえばこれは、私が以前どこかで耳にした話によく似ている。それ は、芸術品の中でも名高い「ミロのヴィーナス」という作品の話である。この「ミロのヴィー ナス」というのは、両手が破損しており現在はもう残っていない。つまり、全体像が未だ に分からない代物なのである。しかしそのことにより、見る人はその両腕がどんな形をし ていたのかということをいろいろ想像させられることとなり、かえって芸術的な素晴らしさ が増しているというのである。つまりそれは「未完成の美しさ」だというのである。「未完 成」のものというのは、人によってそれぞれ完成像が異なる。言い換えれば、その人の 好きなように、自分勝手に想像し、理想通りのものを造り上げることも可能なのである。 そういえば、第三章で述べた俳句にも似た様な効果が見られた。恐らく、今まで述べて 来た幾つかの「含み」の表現においても、相手の想像を利用しているという点で、同じよ うな効果を言葉の世界においてもたらしているのかもしれない。 また、「想像」といえば、これも私の日常生活の中の出来事で思いつく点がある。それ は、ここ最近で久しぶりに日本の映画で人気を博した『リング』『らせん』という二作品を みた時の事である。この映画のストーリーはどうであれ、この作品は文庫で人気が出た ものを映画化したもので、私は文庫の時にこの話を読んでおり、その後たまたま映画を 見る機会があったのだ。そのときに感じたことが、「文庫の方が面白かったなぁ」というこ とである。その原因はそれだけではないのだろうが、おそらく文庫の方は一つ一つの場 面の描写が細かく書かれているのに対し、映画の方はそれを一場面の映像にしてしまっ ているからではないだろうか。つまり、一場面にして目で捉えた映像は、その映像に映っ た分だけしか理解しようとしないが、文庫の方は、書かれていることを頭の中で想像しな がら読み進めていくため、それは1ではなく、2にも3にもなり得、読む人によっては余計 にリアルになっていくのではないだろうか。 このように、「含み」の技術というのはとても奥が深いものであり、その上今まで述べて きたような日常で人が培う「認識」というものが欠かせないということも分かって頂けたと 思う。それはつまり、含みの技術というのは、「認識」を利用して柏手に想像させる表現 方法だからである。そのため、本来伝えるべきものを、わざと情報を減らしたり、反対の ことを言ってみたりすることで、インパクトを増減したり、強調したりすることができるとい うのも、今までに述べてきた通りである。橋元良明氏によると、「隠喩は、譬える側と譬え られる側の二つの類似性が、語り手と聞き手とのあいだにまえもって共通化されてなけ ればならない。つまり、たとえ斬新なメタフアーであっても、その類似性は聞き手を納得 させるものである必要がある。」のだとしている。つまりこれは、メタファーというのは両 者がお互いに共有している認識でなければ、相手を納得させることはできないし、また 意味がないものだとしている。さらに、「直喩は、極端な話両者がまるで似てなくてもよ い。直喩が相手に対して説明的に新しい認識の共有化を求めるのとは逆に、隠喩は相 手に対してあらかじめ共有化した直観を期待するものだからである。」としている。「共有 化した直観」つまりそれは、私が今まで述べて来た「認識を利用して想像」させる事では ないだろうか。そのために、わざと言葉を減らしたり、選んだりするのである。この論文 の序章にも書いたように、「言稟を減らせば内容が広がる」というのはそういった技術を 利用したものなのである。私がメタファーというレトリックに注目し、それを中心にして論 じてきたのは、メタファーの使われ方がその理論に近いと感じたからであり、またそれ は、日本の文学や社会を支えてきたというとても重要な役割を果たしているものだから である。『ホトトギス』の中で高浜虚子が、「漱石は、比喩は文学上最も重要な役目をす るものである。比喩の巧拙に依って文学者の価値が判る。と言った」と述べているのにも 頷ける。 私がここで述べようとした「言葉を減らせば内容が広がる」というのは、「含み」を利用 した表現であり、つまりそれは、相手の持っている「認識」を使い、そこから相手に「想像 させ」、言葉数の少ない内容を膨らませる技術なのである。そしてそれは、「ミロのヴィー ナス」などの芸術品にも、「リング」「らせん」などの物語にも、はたまた日常のチラシの 中にでも利用されているものなのである。
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